ケン坊のこんな感じ。

キーボーディスト、川村ケンのブログです。

ひねれ。


いい天気でしたねー。すぐそこまで来てますね、夏(←だから、絵文字が・・・)。

 

朝、追記をして、先ほど帰ってきてPCをつけてみて、びっくりしました。

いつもコメントを残して下さっているお馴染みの方々もですが、私は普段は読むだけ、という方までも貴重なご意見、コメントを残していただいておりました。しかもそのほとんどとても好意的、といいますか、理解をしていただいているもので・・・。なんか、ウルウルきてしまいました。

内容的にも「あ・・・、良く見ていらっしゃるな。わかってらっしゃるんだな」というものもあって、なんだか心強くなったというか、僕の感覚は間違ってないのかも、と再確認できたような気がしています。

 

ネットが元になる悲しいトラブルというのが、当たり前のように増えてきていますよね。

僕が、こういう話になるといつも思い出すのが一昨年、13歳で自ら命を絶ってしまった、アメリカはミズーリ州のミーガンさんの話。

日本で言えば、ミクシィのようなコミュニティサイトで知り合ったジョシュアという男の子(16歳)と、ネット上でのコミュニケーションを楽しんでいたミーガンさん。でも、ある日突然ジョシュアからの書き込みが「お前はデブで○○○だ!」などという、敵意むき出しなカキコミに変わりました(ミーガンさんは身体のことを気にかけていて、ダイエットをしていたそうです)。しかも、ジョシュアは本人にだけでなく、方々のサイトで、それを撒き散らしていたんだそうです。それまで淡い恋心まで抱いていた彼の突然の変貌振りに、ミーガンさんは精神の安定を失い、間もなく自室のクローゼットで自ら命を経ってしまった、という事件があります。

ジョシュアの最後のカキコミは、「クソまみれの人生を生きていけ。お前なんか、この世にいなくていい」というものだったそうです。それまで、君はかわいい、とか素敵だ、とか散々書いておいての、この言葉。読むだけで、身の毛がよだちます。まして、信じていたネット上の友達、さらには恋心まで抱いていた相手から、こんな酷い言葉を突きつけれた多感な年ごろのミーガンさんの心のうちは、想像に難く無いすよね。心が壊れる音が、聞こえてくるようです。

そして、この事件でさらに恐ろしいと感じたのは、このジョシュアという少年がまったくの架空の存在だったことです。しかもなんと、この少年になりすましていたのは、ミーガンさんの過去の親友だった少女の、母親だった、ということなんです。

 

おとなり韓国でも最近、女優さんや歌手の方が、ネットの誹謗・中傷が元で(おそらく)、若くして自ら命を絶ちました。

 

日本でも、沢山あるでしょう。秋葉原の事件だって、ネットというものが無ければ、また違ったカタチで彼自身、落ち着きを見せていたのかもしれない、とも思っています。

溢れる情報、安易な情報。非常に危うい時代になりました。

 

・・・でもね。

テレビなどでもお馴染みの解剖学者の養老孟司さんの著書で、「よく『情報が溢れている』とか言うけど、実は情報そのものは定まっているのです。単に人間が、定まっている情報の周りをあちこち、ぐるぐると不安定に動き回っているだけなのです」というような事を書いていらっしゃいました。ごめんなさい、文章そのものは完璧には記憶しておりません。ただ、意味はこういうことでした。

これは、・・・目からマグロでした。

 

そう、つまり例えば「本日、丸々ビルがオープン!」とか、「今流行のスイーツは!」とか、なんだか色々と情報が自分の周りを周ってるように感じるかもしれないけど、実はそのソースそのものは厳然たるものでまったく動いてなくて、結局、動いているのは人間そのものなんだ、ということなんですね。もちろん多くの場合、メディアが媒介しているのは間違いありませんが。それ(メディア)とて、情報(ソース)のまわりを周っているのです。

おわかりになりますでしょうか?

つまりこれは、決して情報が溢れているんではなくて、僕たちが”勝手に”情報の周りに群がってる、という言い方をしてもいいのかも、ということです。フラフラしていうのは情報ではなくて、あなた、そして、僕といった、自分自身の方なんですよ、ということです。

これを知ってから(意識するようになってから)取捨選択が少しは出来るようになった気がしています。情報にむやみに踊らされない自分を、と。

 

ネット社会は、まだ今はそれを否定する事ができても(僕をはじめ、ネットの無い時代を生きた人がまだまだ沢山いるからです)、これからは、これは無理になってくるでしょう。これは、人類に絶対についてまわります。おそらくもっともっと広がっていきます(世界的に見たら、まだネットを利用している人なんて、わずかほんの一握りの人々なのですから)。

もしかしたら、・・・あの忌まわしき核兵器と同じように、ひとつのパンドラの箱だったのかもしれません。でも、一度解き放たれてしまった以上、核同様、これらをどう使うのか。僕たちの理性、そして知性が試されていると思います。

先ほど書いたように、ネットは、人殺しの手段にさえなります。怖さでは、核兵器と同じか・・・いえ、一人一人が起爆のスイッチを手にしていると考えたら、それ以上かも、とも思います。

 

でも、・・・ネットは核兵器とは違って、時に人を幸せにすることができます。ネットと通じて、色んな知識を得ることもできますし、いろんな疑似体験も出来ます。また時に、現状では他に置き換えの効かない、大切なコミュニケーションの道具にもなってきていると思います。

とにかく、全ては、僕たち次第。

僕たちのこの生身の肉体以外の全ての人工物は、「生活がより良くなる為に」と私たち自身の手によって作り出された、道具でしかないのですから。

でもね、使いこなすのは、決して簡単ではないと思っています。今どき、洗濯機にだって、電子レンジにだって、分厚い説明書がありますよね。でも、ネットには取り扱い説明書ってないですよね。いきなり、目の前に世界が広がるという、この怖さ。人を殺せる道具にもなりえるのに、クルマみたいに教習所も無い、この無責任さ。

となると・・・もはや、個人個人のモラルしか、頼るところはないですよね。

一緒に、考えていってもらえますか?

よりよき、未来の為に。

その未来の時間を一緒に生きる、僕たち自身の為にも。

 

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今日、スケジュールの公表の件につて、やはり同じように考えておられる先輩メンバーさんとお話ができました。

「まったくのミュージシャン個人のブログで、自分の活動が書けないというのは、やっぱり色々と困るよね」ということで、「例えば」と、アイデアも頂きました。ありがたいことです。しかしやはり、皆同じことを考えているのですよね。頂いたアイデアも、僕なりに咀嚼して、とにかく出来るだけ早く、なにか手立ては考えたいと思います。だって、これでこの先、半年近くも、何も書けないなんて、ねぇ・・・。

いや、僕がいつどこでピアノを弾いたところで、・・・勿論、人の生き死にになんて関係ないかもです。でも・・・さ。

もしかして、少しでもそれが何かになったりしてたら、嬉しいじゃないですか。小さなことでも、とっても素敵なことじゃないですか。

こんな僕でも何か、誰かの役に立つのかも・・・って、せめて、そういう願いだけでも、どこかには持っていたいのですよ。

そして、だから、出来るなら、「行くね」って、そして「来たよ」って、伝えたいのですよ。

 

おい、おれ。こういう時にこそ、ひねれ、あたま。

 

ではー。